「読書感想文のススメ方」 スタッフ本間より

久しぶり本間さんより記事のご投稿をいただきました。

スマホの方は横にして見ていただくとレイアウトとして良いと思います。

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 夏休みが終わりました。
 宿題の読書感想文は書けましたか?

 私は中学1年のおりに書いたのが最後で、それからずいぶんと年月が過ぎてしまいました。
 あの頃は読書から距離を置いた生活をしており、というか本には目もくれず、当然それらしいものが書けたわけではありません。

 さてさて、教えるというとおこがましいですが、宿題の読書感想文を見る立場になってみると、はてどうしたものか
 ですね。
 当時も今も悩みどころは、どうすれば何百字も書けるのか!構成はどうするのか!!そして読書感想文らしさとは!!!であると感じています。

 ということで、大人になった私が読書感想文を綴るとなるとどうするか、ちょっと考えてみます。


 ■課題の文(教科書より)

   山極寿一著『作られた「物語」を超えて』


(1)情報をあつめる

 課題となる本や文章と1対1で向き合うには分が悪い。
 それは私の見方や捉え方、そして感想はたかが知れている、というのが今になってわかってきたからです。
 まずは、著者や関連すると思われる情報をいくつかあつめるところからです。


 (い)著者について少々

 人類学者、霊長類学者にして、ゴリラ研究の第一人者。
 著書も多数あり、その中でゴリラの生態をはじめ、ゴリラ目線で現代社会の問題、特に教育について思うところが大きいようです。


 (ろ)内容について

 ネット上で、著者の想いが語られていました。以下、抜粋です。

 光村書店 web magazine
 https://www.mitsumura-tosho.co.jp/webmaga/kotoba-to-manabi/interview/tsukurareta

 Q:「物語」という表現に込めた意味は?

 A:執筆するにあたって念頭に置いたのは、芥川龍之介の短編「桃太郎」です。これは有名な昔話を鬼の立場から描いたもの。鬼が島で安穏に暮らしていた鬼たちのもとに、桃太郎が突如として現れる。逃げ惑う鬼たちを追い立てる桃太郎に、鬼は恐る恐る、自分たちは何か無礼でもしてしまったのかと尋ねる。すると桃太郎は次のように答えた。

    「日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召し抱えた故、
     鬼が島へ征伐に来たのだ。」

   身勝手な言い分で何の罪もない鬼を征伐する桃太郎と、被害者となってしまう鬼。この構図は、ヨーロッパ諸国によるアフリカ諸国に対するかての植民地支配にそのまま当てはまる。

   「物語」を読み解くとき、作った側の視点ではなく、作られた側の視点から検討することが必要だという思いをこの文章には込めたつもりです。
   「物語」の裏側には、必ず作った側の意図があり、時にそれは正当化の手段として成立しているからです。

 (は)芥川龍之介の桃太郎について

   大正13年の作品です。この年、第一次世界大戦の賠償金支払いに悩むドイツではナチス共産党が躍進する。イギリスではチャーチルが蔵相に就任し、金本位制に復帰する。アメリカではIBMが誕生し、日本は前年の関東大震災からの復興を目指していた。ブルトンの『シュルレアリスム宣言』、トーマス・マンの『魔の山』、宮沢賢治の『春と修羅』などが出版された。

  以下、『芥川龍之介全集5 桃太郎』ちくま文庫をもとにした概要です。

   桃から生まれた桃太郎は鬼が島の征伐を思い立ちます。その訳は、お爺さんやお婆さんのように、山や川や畑へ仕事に出るのがいやだったから。
  この腕白ものに愛想をつかしていたお爺さんとお婆さんは、出陣の身支度を整え、黍団子をもたせ、笑顔で見送りました。

  犬、猿、雉を従えた桃太郎、目的は鬼が島の宝物です!

   鬼が島は絶海の孤島でした。
  椰子の聳えたり、極楽鳥の囀ったりする、美しい天然の楽土で、このような地に生まれた鬼は平和を愛していました。
  瘤取りじいさんの話に出てくる鬼は一晩中踊っていたり、一寸法師の話に出てくる鬼は一身の危険を顧みず物詣での姫君に見とれたり、酒呑童子大江山の岩屋に酒ばかり飲んでいたり、と、鬼とは元来人間よりも享楽的に出来上がった種族らしい、と芥川はいいます。

   鬼が島に上陸すると、
  「進め!進め! 鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ!」
  桃太郎はこういう罪のない鬼たちに建国以来の恐ろしさを与えました。

   あらゆる罪悪の行われた後、鬼の酋長は降参し、こんなやりとりが
  「では格別の憐憫により、貴様らの命は赦してやる。その代りに鬼が島の宝物は一つも残らず献上するのだぞ。」
  「はい、献上致します。」
  「なおそのほかに貴様の子供を人質のためにさし出すのだぞ。」
  「それも承知致しました。」

  鬼の曹長は恐る恐る桃太郎へ質問しました。
  「わたくしどもはあなた様に何か無礼でも致したため、ご征伐を受けたことと存じております。しかし実はわたくしを始め、鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、とんと合点が参りませぬ。ついてはその無礼の次第をお明し下さる訳には参りますまいか?」
  桃太郎は悠然と頷きました。
  「日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召し抱えた故、鬼が島へ征伐に来たのだ。」
  「ではそのお三かたをお召し抱えなすったのはどういう訳でございますか?」
  「それはもとより鬼が島を征伐したいと志した故、黍団子をやっても召し抱えたのだ。 どうだ? これでもまだわからないといえば、貴様たち
 も皆殺してしまうぞ。」

  桃太郎は犬猿雉の三匹と、人質に取った鬼の子供に宝物を引かせながら、
  得得と故郷へ凱旋しました。

 (に)鬼

  そもそも鬼って悪者なのでしょうか?

  鬼  大辞林 第3版 より

   姿が見えない意の「隠」の字音「おん」の転という

  1)(天つ神に対して)地上の国つ神。荒ぶる神。
  2)人にたたりをする怪物。もののけ。幽鬼。
  3)醜悪な形相と恐るべき怪力をもち、人畜に害をもたらす、想像上の妖
   怪。仏教の影響で、夜叉・羅刹・餓鬼や、地獄の獄卒牛頭・馬頭などを
   さす。牛の角を生やし、虎の皮のふんどしをつけた姿で表されるのは、
   陰陽道丑寅(北東)の隅を鬼門といい、万鬼の集まる所と考えられた
   ためという。
  4)放逐された者や盗賊など、社会からの逸脱者、また先住民・異民族・
   大人・山男などの見なれない異人をいう。山伏や山間部に住む山窩など
   をいうこともある。
  5)子孫の祝福に来る祖霊や地霊。
  6)死者の霊魂。亡霊。

   桃太郎からすれば、鬼が島の鬼は、3)と4)を合成したようなキャラ
   クターでしょうか。

 (ほ)他の著書、論文にもあたってみる

  例)
   山極寿一、小川洋子著『ゴリラの森、言葉の海』新潮社
   山極寿一、小菅正夫著『ゴリラは戦わない 平和主義、家族愛、楽天的』
              中央公論新社
   養老孟司、山極寿一著『虫とゴリラ』毎日新聞出版
   山極寿一、小原克博著『人類の起源、宗教の誕生』平凡社
   山極壽一『コロナ・パンデミック未来社会』
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/27/9/27_9_12/_pdf

   さっと眺めると、著者はヒトとゴリラをわけるものとしての言葉に注目
   しているようです。では、タイトルにある物語とは何を意味するのか。

  物語  大辞林 第3版 より

  1)あるまとまった内容のことを話すこと。ものがたること。また、その
   内容。話。談話。
  2)文学形態の一。広義には、散文による創作文学のうち、自照文学を除
   くものの総称。すなわち、作者が人物・事件などについて他人に語る形
   で記述した散文の文学作品。特に、人物描写に主眼のある小説に対して、
   事件の叙述を主とするものをさすことが多い。
  3)浄瑠璃・歌舞伎の演出・演技の一形式。登場人物が過去の事件や心境
   を身振りを交えて物語る場面。
  4)男女が相語らうこと。情を交わすこと。

   1)が該当しそうです。『人類の起源、宗教の誕生』によれば、

   言葉によって、目には見えない、現実にはないものをつくり出す能力ができた。また、言葉によって、人間の世界の外にある何ものかを知り、あるいは何かを想像する力を手に入れた。つまり、想像する力が圧倒的に拡大されたのだ。
   言葉ができて、世界を言葉で語り始めて、物語を作ってコミュニケーションを取り合うようになった。
   その結果、物語の世界の方が、今身体で感じている世界よりもリアリティを持ち始めるようになったのではないか。

   ジャングルでは能力の違う生物たちが、お互いにコミュニケーションを取り合って秩序を保っているように思える。そこには我々にはまだ理解できない、言葉以外のコミュニケーションがあるのではないか。そうであるならば、言葉を発する以前のヒトもジャングルでは同じことを行っていたはずである。そして、言葉を得ることによってヒトはジャングルから離れ、そこに住む生物たちから孤立する道を選んだのではないか。

   言葉は情景を描いたり、物事を伝えるということに関しては、非常に便利である。しかし、我々が五感で感じた風景や音声を言葉にして伝える場合、そこでは非常に抽象化したシンボルにつくり変えられてしまう。言葉にすることで、情報が欠落したり、誇張されたりするということである。ゆえに、自分が感じたことそのものすべてを正確に伝えるのは困難である。言葉が文字となり、そして物語になればなおさらである

   ゴリラは自己主張の強い動物である。だが、主張が強すぎれば仲間から反感を買い、主張が弱ければ仲間から認めてはもらえない。ゆえにゴリラは相手によってそれを使い分ける方法をとっている。そのために生まれてからずっと身体を使ってそれを経験し、学んでいるのだ。身体とは五感をフルに活用すること、それは言葉を持たない代わりに、身体を使ってコミュニケーションをはかっているのである。


(2)要約してみる

  かつてゴリラには狂暴で獰猛で人間を襲うらしい、というような物語があ
 った。それは、ヨーロッパ人がアフリカ大陸の密林の奥地でゴリラに遭遇し、
 ドラミング(手で胸を叩くしぐさ)を目の当たりにした体験が由来している
 ともいわれている。この作られた物語が災いし、ゴリラは悲惨な運命をたど
 ることになった。出会うヨーロッパ人に問答無用で殺され続けたという。

  著者はゴリラ研究の第一人者である。その研究スタイルはフィールドワー
 クを第一にする。自分の目で確かめ、そこで得られた身体的な体験をもとに
 研究を続けていた。そして、その研究スタイルがそれまでの作られた物語を
 超えて、その奥へと進むことを可能にした。

  ゴリラは群れで生活をしている。群れのリーダー同士がばったり出会った
 ときには、互いにドラミングを行うことで戦いを避け、何事も無かったかの
 ようにその場を去ることがわかってきた。ゴリラは平和的に解決することを
 望んでいた。そしてそれは、相手がヒトである場合も同じであることもわか
 ってきた。作られた物語は時に疑ってみてもよいのでは、ということなので
 ある。

  芥川龍之介には桃太郎という短編小説がある。その中で芥川は世間では悪
 者とされている鬼について、そうではないことを描いた。鬼が島で平和に暮
 らしていたにもかかわらず、ある時、桃太郎に理由もなく襲われた、という
 物語に仕立てたのだ。

  桃太郎と鬼の関係は、ヨーロッパ人とゴリラの関係に似ている。そして、
 鬼が島とアフリカ大陸から宝物を略奪するところも一致する。ではその一方
 的な略奪行為にはそれを正当化する理由はあるのだろうか。芥川は桃太郎が
 生まれる前のことをこう描いている。

   むかし、むかし、大むかし、この木(桃の木)は山谷をおおった枝に、
  累々と実を綴ったまま、静かに日の光りに浴していた。一万年に一度結ん
  だ実は一千年の間は地に落ちない。しかしある寂しい朝、運命は一羽の八
  咫烏になり、さっとその枝へおろして来た。と思うともう赤みのさした、
  小さい実を一つ啄み落した。・・・人間のいる国へ流れていたのである。

 八咫烏による偶然が桃に作用しただけだという。桃太郎が鬼を退治する力を
 持って生まれたのも、偶然であろうか。

  古代ギリシアにはポリスとオイコスという一対の見方、思想がある。ポリ
 スは都市空間であり、政治的な活動を行うところ、オイコスは家庭空間であ
 り、生活を成立させる生産活動をするところである。これはギリシア的、ア
 ジア的ともいわれ、搾取する側と搾取される側の関係でもある。ヨーロッパ
 が、偶然にできたギリシア的空間であれば、アフリカ大陸はアジア的空間な
 のである。桃太郎が持つ鬼を退治する力を文明に見立てれば、その力をもっ
 て鬼が島に向かうことは、ポリスからオイコスへ向かうことと同じなのであ
 る。

  物語は大量の情報となって世にあふれている。たまにはそれを疑ってみて
 も良いのではないか。作られた「物語」を超えることができれば、その先に
 新たな世界を発見できる。そのための方法として、著者は自身の経験から、
 時に言葉を疑い、身体的な体験を重視することを提案する。

  言葉と想像力は深く関係している。例えば、同じヒトであってもレトリッ
 クを使えば安易に違うものに見立てることもできる。あれはヒトではない、
 まるでケダモノだ、というように。ヒトは言葉によって意識をコントロール
 できる。ゲダモノであると見れば身の危険を感じるし、言葉が通じない動物
 と捉えれば共存よりも排除を選択する可能性が高くなる。著者は言葉や物語
 は、それが争いや戦争を引き起こす原因になるという大胆な仮説を立ててい
 る。言葉を手に入れたゆえに、自らの命の危機にも直面することになったの
 だと。言葉による区別や差別がその境界にあり、それを明確にするものとし
 て、レトリックが使われてきたのではないかと。この言葉の機能を利用すれ
 ばヒトを洗脳することはたやすい?近代戦争におけるプロパガンダ戦略のよ
 うに。


(3)感想は?

  話題が多岐に広がりを見せているため、著者の考えるところを取り出すの
 が難しかった。ゆえに、色々な本を手にとってみることにした。著者はゴリ
 ラの研究を通して、それまでの物語にはない、意外な事実を発見することが
 できた。フィールドワークを通して、身体で体験したからこそ経験できたの
 だ。これがゴリラ目線で世界を観ることであるという。
  ネット社会が加速し、言葉や物語という情報が目の前にあふれるようにな
 った現代では、身体で体験する機会が激減している。例えば紙の本が電子書
 籍に変わることで、紙の手触り、匂い、色、重さを感じることが無くなった。
 それはどこかで、鬼の立場で考えてみるようなことができ難くなることとも
 つながっているような気がする。鬼の立場で考る必要がないということは、
 選択肢が減り、迷う機会を奪うことであり、それは考えるという楽しみから
 遠ざかることでもある。考える行為を誰かが代行してくれているとも。
  著者は言葉には重さがないという。それは本を例にすれば電子化されたこ
 とで、言葉と身体的なものが分離されてしまったということである。分離さ
 れたことで物語を超える機会が減ったということである。物語は時に争いを
 正当化してしまうものだが、それを超えることで、争いのない未来を実現で
 きる可能性がヒトには残されているともいえるのだが、さて、どうなのか。
  むずかしい。私は著者の言葉に不足を感じていた。もっと言葉を尽くして
 もらわないと何を伝えようとしているのか、その真意がつかめないと思った
 からだ。だが、そうではない。著者はゴリラなのだ。言葉ではなく身体で何
 かを伝えようとしているのだ。私たちは言葉の中に閉じ込められている、だ
 からそこから外に出てみろという。著者はジャングルの中で生き物を観察し
 ていた時、言葉が煩わしいと感じたという。それまでにない新たな目線で世
 界を覗いた瞬間であり、物語を超えるきっかけを掴んだのだ。それは、そう
 いう場に向かうことでしか得られない、だからそこで待っていると。きっと
 私たちの周りにはたくさんのジャングルがあるはずだ、だたそのことに気づ
 いていないだけなのだ。


(4)感想文にとりくんだ感想

  ゴリラの目線とはなんぞや?私が入手できた本にはゴリラの生態があまり
 書かれていなかったため、ゴリラ像を掴めなかった。ゴリラとヒトを比較し
 てあーだこーだと感想を述べていけばもう少し面白いものができただろうに、
 と思ったりも。

 おわり