0724 教室の様子と数学連載

暑いですね。

ご無沙汰しています、教室長です。

夏休みが始まりましたね。

 

学校行事がない分、いつもよりも生徒さんの出席率が上がるのが夏休みです。

 

ただ7月中は例年中学校では、部活動の大会前佳境の時期でもあります。

昨年はコロナ禍ということで、多くの大会などが中止を余儀なくされましたが、今年は感染症対策への配慮のもと、オリンピック同様にそれらの大会も行われるものが多くなりました。

 

吹奏楽部や陸上部などでお休みする生徒さんも今日は多くなりました。

 

それぞれのフィールドでぜひ頑張って欲しいですね。

感染症はもちろんのこと、熱中症にも気をつけてください。

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午前は生徒もスタッフも少なめでした

▼以下連載記事

 

本間幽霊先生です、原稿書きました。
続くこと半年(*^.^*)
どろどろどろ~。

ーーーここからーーー

数学について、賢人のことば。
第14回は、数学とのあいだにあるもやもや、其の3です。

★☆は捕捉とコメントです。

そもそも世界とは、
デカンショショーペンハウアーから、
「世界はわたしの表象である」
「世界はわたしの意志である」

★人間は外的世界の刺激に対し、本能や条件づけに従って反応し行動するだけでなく、
むしろ独自の仕方で自分の生きる現実を意味づけ、構成するという仕方で世界に関わる。
★神によって命じられた普遍的秩序を論拠とする全体主義的横暴と、理性が構築する普遍的な存在秩序の名によって行われる全体主義的横暴のどちらにも陥らない存在秩序を模索する、、、

☆意識は、それがつくりだした現象の世界だけを反映する。という事は、わたしから世界へ、一方通行のようにも見えますが、
世界は、神と理性、それ以外にありうるのでしょうか?
★意志の否定の可能性、自己享楽から他者の苦を共有する「ミットライト」へ。
仏教に近づいてきましたね。小乗から大乗へ、、、

さて、数学と自然のあいだですが、
そこを見てみると、

すべての問題点はわれわれが数学的な形式と自然とを比較する所で再び現れてくる。
なぜなら、われわれが自然について何かの陳述をしようとするならば、どこかで数学の言葉から通常の言葉へ移行しなければならないからだ。
(ハイゼンベルク)

☆数学の言葉→移行→通常の言葉→自然
言葉そのものも多様ですが、そう考えると、自然は一つではない?一つにできないのでは?

「物理学でつねに用いられる分析法が矛盾をもたないことを、形式的な方法でそれ自身の中から証明することは事実不可能である」ことが示されている。
したがってこの無矛盾性に対する基礎は数学自身の外に求められなければならない。
そこでこの無矛盾性は(人間の精神の機能のあり方と関連した)自然の事実として出現するのである。
(パウリ)

☆分析法(数学)=矛盾あり→物理学
人間の精神+無矛盾性→自然
矛盾は、人間の精神が自然と関わる時に、勝手に作られたもの?或いは自覚されたもの?

解析性の裏には必ず特異性がある。
そういう数学的な存在が、どうして物理に役立つか、きわめてわかりにくいんです。
(湯川秀樹)

☆数学(解析性+特異性)→物理学
特異性も同じく?
湯川さんレベルでも分かりにくいと!
ちょっとホッとしますね。


物理学者が物理学をつくりだすとき拠りどころにする数学では、
先ず、あつかう対象の定義からはじめるのが常でした。
近代になって対象を定義することなく、無定義なものに対する公理群から出発することも行われます。
しかし物理学を定義することも、それにかわる公理群を定めることも不可能です。
なぜなら、物理学という学問は、現在にいたるまで絶えず変化しており、将来も変化するにちがいないからです。
(朝永振一郎)

☆対象を定義しても、しなくても、数学は成立しているように見えますが、物理学から見るとそうではないと。
対象の定義→数学→物理学
対象(無定義)→数学(公理群)→物理学
実は物理学(変化あり)→公理群(定まらず)
☆自然もたえず変化していますが、変化をどう取り込むか、取り込めるのか?その都度書きかえるとなると大変ですね!


時空的現実に関して、二種類の対象、すなわち物理的対象と幾何学的対象とが衝突せずに浸透し合うという二元論の理論を奉ずることになる。
衝突が起こらないのは、物理法則が幾何学的対象にまで拡張されないからにすぎない。
(クワイン)

☆仮に、時空的現実を自然とすると、
物理的対象+幾何学的対象→時空的現実?
物理法則←→幾何学的対象
☆物理法則と幾何学的対象は、自然のなかであえて棲み分けしている?見ている景色が違うんでしょうか?


物理現象をいったん数学の世界に写像してしまえば、そこでは写像された変数を数学的にどう処理するかは自然現象とは関係がない。
そこで虚数複素数が登場するのは日常茶飯事である。
(佐藤文隆)

☆自然現象→物理現象→写像→数学→✕自然現象
写像に何か秘密がありそうですね。
抽象化?
数学と自然との関係がなくなるって、どういう事なんでしょうか。
そこにも意志ははたらいている?矛盾を嫌っている?それとも数学が自ら?


数学は信念の[論理的な]帰結を示すことはできる。
しかし、単なる可能性から事実問題への、言いかえれば単なる数学から具体的自然への、妥当な推論は存在しない。
(ホワイトヘッド)

☆数学=論理的な帰結→✕具体的な自然
★物理学の対象の同質性こそ、計測と数学的計算をおこなうための条件である。
対象の同質性ということは、抽象的に見ているという事、意識するという事。
★飛躍しますが、自然は、「水は自ら茫茫、花は自ら紅」という事でしょうか。

全体を導き出すのにはここから出発すべしといった類の特別の命題はあるでしょうか?
自然の示すなんからの規則性とかパターンとかをよりどころにして、どの命題がより基本的で、どの命題は二次的な性格のものという区別をたてることができましょうか?
(ファインマン)

☆仮に、全体を自然とすると、
✕命題→全体
✕自然→命題
神様は自然のなかに、命題なんぞ用意してなかったと。

人間が自然の一部分でないということは、不可能であり、
また人間が単に自己の本性のみによって理解されうるような変化、
自分がその妥当な原因であるような変化だけしか受けないということも不可能である。
(スピノザ)

☆自然とのあいだがどうなってるか、うんぬんかんぬんする前に、人間も自然の一部である事を前提に、話をすすめないとですね。

而今の山水は、古仏の道現成なり。
(道元)

ご参考

「哲学の歴史 9」須藤訓任責任編集、中央公論新社
「世界の名著 65 現代の科学 Ⅰ」湯川秀樹井上健編集責任、中央公論社
「世界の名著 66 現代の科学 Ⅱ」湯川秀樹井上健編集責任、中央公論社
「世界哲学史3、5、9」ソビエト科学アカデミー哲学研究所編、寺沢恒信、出隆、川内唯彦訳、商工出版社
「物理と認識」W.パウリ著、藤田純一訳、講談社
「部分と全体」ハイゼンベルク著、山崎和夫訳、みすず書房
「物理学とは何だろうか」朝永振一郎著、岩波新書
「ことばと対象」W.V.O.クワイン著、大出晁、宮館恵訳、勁草書房
「生物の世界」今西錦司著、講談社文庫
量子力学イデオロギー佐藤文隆著、青土社
ホワイトヘッド著作集 第12巻 観念の冒険」山本誠作、菱木政晴訳、松籟社
十牛図上田閑照、柳田聖山著、ちくま学芸文庫
「物理法則はいかにして発見されたか」R.P.ファインマン著、江沢洋訳、岩波現代文庫
「エチカ」スピノザ著、畠中尚志訳、岩波文庫
正法眼蔵」増谷文雄全訳注、講談社学術文庫