ブログ連載 数学第13回 数学とのあいだにあるもやもや、其の2

数学について、賢人のことば。
第13回は、数学とのあいだにあるもやもや、其の2です。
難しくて、私の頭ももやもやしてますが。

★☆は、捕捉とコメントです。

カントにもどります。

カントが、われわれの観念にわれわれの外にあるもの、なんらかの物自体が照応している、ということをみとめるとき、ここではカントは唯物論者である。
この物自体を彼が認識不可能な、超越論的な、彼岸的なものであると説明するとき、カントは観念論者としてたちあらわれる。
空間、時間、因果性等々の先天性をみとめるとき、カントはその哲学を観念論のがわにむけている。
(レーニン)

☆観念論、唯物論とは?

観念論は自己の「自我」の存在、さまざまな表象の存在だけを主張し、
これから出発して、物質を説明しようとこころみている。
唯物論は、物質の存在についての前提から出発し、そのことから感覚を説明しようとこころみている。
(ボルツマン)

☆表象とは?

事物についてのわれわれの表象は、事物に対する記号、自然的にあたえられた標示以外の何ものでもありえないのであって、
これらのものを、われわれはわれわれの行動や運動を調整するために利用することをまなぶのである。
(ヘルムホルツ)

★カントは、唯物論と観念論のあいだで、認識について考えていました。
★カントによれば、現象だけが、人間が認識するところのものである。
意識は、それがつくりだしたもの、現象の世界だけを反映する。
★二つの種類の知識がある、真に科学的な知識と、不完全な限界のある知識。
第一のものは、無条件的な確実性、普遍性および必然性をなしている。
数学の命題はア・プリオリ(先天的)である。直接に理性から出てくるのであり、それ自身が経験的認識の前提である。
★空間と時間の客観性を否定し、それらを、直接的感性的直観の主観的な、経験に先だつ(先天的)形式であるとする。
★数学的対象は、意識の外に存在する何ものかを反映しているのではなく、数学的対象の存在の条件が悟性によってあたえられたものである。
【悟性】理念の能力である理性と異なって、感性に受容された感覚内容に基づいて対象を構成する概念の能力、判断の能力をいう。(大辞林 第三版)

幾何学においては、空間の概念、および空間における幾何学構成に必要な最初の基礎概念を、なにか与えられたものと仮定している。
これらの仮定の間の関係はその際不明なままに残されて、それらの結合がいったい必要なのか、またどの程度まで必要なのか、なお先験的にそれが可能なのかわからない。
(リーマン)

☆基礎概念は、誰が与えてくれているの?
という事は置いといて、数学の中心部は、蓋を開けてみないとわからない?という事でしょうか?
シュレーディンガーの猫みたいにゃ。
☆仮定から進めて、それを自然科学に応用したとしても、


相互に排除しあう仮説の数が多く、またそれが交替していくという事実は、
自然科学者に論理的ならびに弁証法的素養が欠けているときには、
事物の本質をわれわれは認識しえないという観念を容易にうみだすのである。
(エンゲルス)

弁証法を知らない場合に、自然科学者たちは、彼らの理論がしばしばかつ急激に崩壊するという条件のもとで、相対主義をとおって不可知論へところがりおちる。
弁証法
古代ギリシャで、対話などを通して事物の真の認識とイデアに到達する、ソクラテスプラトンにみられる仮説的演繹的方法(問答法)をいう。
アリストテレスでは、確からしいが真理とはいえない命題を前提とする推理をさし、真なる学問的論証と区別される。
②カントでは、経験による裏付けのない不確実な推理を意味し、それを純粋理性の誤用に基づく仮象の論理学ととらえる。
ヘーゲルでは、有限なものが自己自身のうちに自己との対立・矛盾を生み出し、それを止揚することで高次なものへ発展する思考および存在を貫く運動の論理をさす。
それは思考と存在との根源的な同一性であるイデー(理念)の自己展開であるととらえられる。
マルクス・エンゲルスでは、自然・社会および思惟の一般的運動法則についての科学とした。

弁証法唯物論
世界は全体として統一をもちながら相互に連関し発展する物質であり、思考や意識もその物質の模写の過程てあるとする。
(大辞林 第三版)

☆仮説が増えればおのずと、矛盾も出てきそうですが、それを良しとするか否か。
弁証法が大事とのことですが、理性うんぬんには、限界があるのでは?
☆数学から、観念論、不可知論、唯物論弁証法など難しいものがゴロゴロ出てきました。
数学と扱う対象との間に、自然科学(物理学など)を挟んで、もう一度見てみましょう。


数学の発展は自然科学と非常に密接に絡み合っています。

優れた数学的着想の多くは経験に由来するものであり、いかなる人間の経験からも切り離された、絶対不変な数学的厳密性の概念が存在するなどとても信じられない。

数学者の選択と成功の判断基準は主に審美性からくるものであると言っても良い。

経験的な起源から遠く離れたり、多くの"抽象的な"同系交配を繰り返すと、数学の分野は墜落する危険性があります。
(ノイマン)

★物理学の理論は客観的実在の反映、写し、写真なのか、それとも符号、記号、人間の意識の恣意的な産物であるのか?
という疑問はひとまず置いといて、カントが言う、ア・プリオリ(先天的)ではなく、経験や結果に基づいてみると。
【経験論】
知識の源泉は理性ではなく、もっぱら感覚的経験にあるとする哲学上の立場。
(大辞林 第三版)


幾何学(ひいては数学全体)を確実だと思いこませるものは、その教説が全く特別な種類の認識によって得られるということに基づくのではなく、
ただ、その経験的素材が、とりわけ容易かつ便利に手に入るということ、殊に再々検証でき、何時でも追検証できるということ、もっぱらこれに基づくのである。
(マッハ)


物理学の基礎概念を導きだしてくることができるような帰納的方法というものは存在しません。
論理的な思考は必然的に演繹的なものであり、仮説的な概念や公理に基づいているものです。
ところで、こういった概念や公理を、結果として成功を期待できるから正しいものだといえるように選びだしてくるということは、いったい望みうることなのでしょうか。
経験の世界それ自体だけから新しい基本的仮説が示唆されるという場合があれば、それがもっとも望ましい場合であることは明らかです。
(アインシュタイン)


帰納】個々の特殊な事実や命題の集まりからそこに共通する性質や関係を取り出し、一般的な命題や法則を導き出すこと。
【演繹】諸前提から論理の規則にしたがって必然的に結論を導き出すこと。
普通、一般的原理から特殊な原理や事実を導くことをいう。
(大辞林 第三版)

☆経験を有効活用せよと。ただし、観測については、、、

いかに観測手段が精緻にされえようとも、事実と極限値との差異は決して観測できないであろう、と。

積分定理も類推も常に、たがいに関連する事実総体の一小部分しか与えない。
したがって個々の現象領域各々の精密な表現そのものには、ますます多くの特殊な描像をつけくわえねばならない。
(ボルツマン)

☆再び極限値の問題が出てきましたが、
見えないもの、見える化できないものは観測できないですよね。個々のものを同時に見ることもできませんし。
観測に限界を設定するのか、しないのか、それとも丸め込んでしまうのか。


ご参考
幾何学の基礎をなす仮説について」ベルンハルト・リーマン著、菅原正巳訳、ちくま学芸文庫
「世界の名著 65 現代の科学 Ⅰ」湯川秀樹井上健編集責任、中央公論社
「世界の名著 66 現代の科学 Ⅱ」湯川秀樹井上健編集責任、中央公論社
「世界哲学史3、5、9」ソビエト科学アカデミー哲学研究所編、寺沢恒信、出隆、川内唯彦訳、商工出版社