0619 新スタッフ紹介とブログ連載 数学第11回(松尾芭蕉)

こんにちは、ボランティアとして4回目の参加の伊藤(いとう)です。

趣味はゲームに睡眠、最近は暇さえあれば寝るといった生活を送っています(o^^o)

 

今回初めてブログを記入させていただいています。初めてですがこれまでのブログを参考に頑張りたいと思います。よろしくお願いします!

 

今回で4回目ですがようやく教室に慣れてきた感じです。ここ蓮沼教室はゆったりとした空間でアットホームな雰囲気がありますね。生徒とスタッフとの交流も多く私自身ボランティアをしていてとても楽しいです!和室ということもあり心が落ち着く気もします。

 

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まだまだ未熟者ですがこれから教室にいる方々との交流を深めて楽しくボランティアをして行けたらいいと思っています。改めてよろしくお願いします!!^^

 

 

ブログ連載〜

(スタッフ本間)

 

数学について、賢人のことば。
第11回は、気分を変えて、数学と芭蕉のあいだ其の1です。


「古池やかはづ飛び込む水の音」

この句から話を進めていきます。

この俳句の主役は音である。
ただ耳だけの世界がそこにある。
蛙の飛び込んだ水の音、つかの間の余韻、そのかすかなききとり難いものを追って耳は限りない静寂に出会っていく。
「古池」という言葉は、この限りない静寂のために絶対欠かすことが出来なかったというふうにみえる。
(「日本の耳」より)

耳が良かった、音に敏感だった、そして音をよんでいます。

「閑さや岩にしみ入蟬の声」
「水取りや氷の僧の沓の音」
「海暮れて鴨の声ほのかに白し」
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」

などなど、芭蕉には耳にちなんだ句が沢山あります。
天才だ。

この句には主役の「かはづ」にも秘密があります。
まず、古人にどうよまれてきたのか見てみましょう。


万葉集

十首くらいあります。
カッコ書きがないのは、よみ人しらずです。

雑歌
「今日もかも、飛鳥の川の夕さらず河蝦(かはづ)なく瀬の、さやけかるらむ」(上ノ古麻呂)
「河蝦鳴く清き川原を、今日見てば、何時か越え来て、見つつ偲ばむ」

春の雑の歌
「河蝦鳴く神南備川に、影見えて、今か咲くらむ。山吹の花」(厚見ノ王)
「み吉野の岩もとさらず鳴く河蝦。うべも鳴きけり。川を爽けみ」

古今和歌集

古今和歌集の仮名序に、
「花になくうぐひす水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。」

とあります。どうやら王朝の風雅(みやび)には、「かはづのこゑ」が必要不可欠なようですね。

一首あります。

「かはづなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにあはまし物を」(橘清友?)

千載和歌集

一首あります。

「山ぶきのはなさきにけりかはづなくゐでのさと人いまや問はまし」(藤原基俊)

万葉集の厚見ノ王の影響でしょうか、
「山吹」と「かはづ」がセットになってますね。

★有名人もよんでます★

「神なびの山したとよみゆくかはにかはづなくなり秋といはばや」(柿本人丸)
「かみつせにかはづなくなりゆふさればかはかぜさむしゆふまくらせん」(大伴家持)
「色も香もなつかしきかな蛙なくゐでのわたりの山ぶきの花」(小野小町)
「かはづなく井でにならへる山吹はむしのこゑする秋もさきけり」(和泉式部)
「みさびゐて月もやどらぬにごりえにわれすまんとてかはづなくなり」(西行)
「庭たづみかきほもたへぬ五月雨はまきの戸口に蛙鳴くなり」(藤原定家)

伊勢物語

一首あります。

昔、女、人の心をうらみて
「風吹けばとはに浪こす岩なれやわが衣手のかわく時なき」

と、つねのことぐさにいひけるを聞きおける男、
「宵ごとにかはづのあまたなく田には水こそまされ雨は降らねど」

★千五百番歌合★

主催者の後鳥羽院自身を含めて、左右十五人計三十人の歌人が百首を詠じ、これを競いました。
史上最大の歌合です。

十首あります。
対戦相手の歌とともにどうぞ。(○が勝ち)


「はるさめのふるのやまだをきて見ればしぎのふしどにかはづなくなり」(家長)
「はるのいけのみぎはのやなぎうちはへてなびくしづえにをしぞたつなる」(讃岐)○


「やま河をまかせてけりなをやま田のなはしろ水に花の浪よる」(道光卿)
「とききぬとなはしろ水やまかすらむいほしろをだにかはづなくなり」(宮内卿)○


「いにしへののもりのかがみあとたえてとぶひはよるの蛍なりけり」(寂蓮)
「かぜをいたみはすのうき葉にやどしめてすずしき玉にかはづなくなり」(後鳥羽院)○


「山ふかきまつにふきけりみやこにはまだいりたたぬ秋風のこゑ」(俊成卿女)
「かはづなくはすのしたばのさざなみにうき草わくるゆふぐれのかぜ」(公経卿)○


「なにせんにかかるこひぢをふみそめてゆくへもしらぬなげきなるらん」(越前)
「かはづなくかみなびがはにさくはなのいはぬいろをも人のとへかし」(讃岐)○


「かはづ」とは和歌の場合は、カジカガエルのこと。
きれいな声で鳴き、きれいな水にしか棲まないようです。

「古池やかはづ飛び込む水の音」

ところが、
この「かはづ」は、鳴きもせず古池に飛び込んでしまいました。
あれっ、新しい!、可笑しい!!
みやびな幻想の世界から現実の世界へ、これを俳諧化といいます。

計算してますね。天才だ。

この句は、貞享三年この春、芭蕉庵に素堂と蕉門の俳人たちが相会して、蛙の句会「蛙合」を行っていたときに、発表されたようです。
古池は、芭蕉庵の傍らにあったと思われます。
其角がそのとき初五に「山吹や」と置くことを進言したという伝説があります。

ここで、芭蕉の句ついて少し紹介します。

その1
芭蕉は、「歌に和らぐ神ごころ」云々と言ってますが、神は滑稽な所作を喜ばれるという1つの信仰があったそうす。
神さまが味方してくれるなら、安心して句が作れそうですね。

「鶯や餅に糞する縁のさき」
「木枯や頬腫痛む人の顔」
「青くてもあるべきものを唐辛子」
「猪の床にも入るやきりぎりす」
「行く秋や手をひろげたる栗のいが」

その2
芭蕉は、旅をし多くの歌枕を訪ねました。
風土にしみついた古人の亡霊の語る声に耳を傾けてまわる旅とも。

草枕犬もしぐるるか夜の声」
漱石も小説「草枕」を書いてますね。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ
兎角に人の世は住みにくい。と。

「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
明石夜泊と前書があります。
明石の海には、人麻、光源氏、平家一門の夢が眠っています。

「春なれや名もなき山の薄霞」
奈良越えと前書があります。
人麻や後鳥羽院に、天の香具山と詠まれてきた「名のある山」を裏返しています。

「辛崎の松は花より朧にて」
湖水の眺望と前書があります。
湖水は琵琶湖、大津からの眺望です。
人麻が「辛崎の松」を詠んでいます。

その3
芭蕉は、よくものを見るようにと言ってます。
「松の事は松に習へ」
「物我不二」
「つねにものをおろそかにすべからず」

自然の表情の変化に対するこまやかな凝視が大事であると。
手でものを見ると言った人もいますけど。
芥川は、目に訴える美しさと耳に訴える美しさとの微妙に融け合った美しさである。と

「春雨や蓬をのばす草の道」
「無性さやかき起されし春の雨」


では、その後「かはづ」がどうよまれてきたか少々紹介します。
みんな芭蕉に挑戦することになるのですが。

「新いけやかはづとびこむ音もなし」(良寛)
「日は日くれよ夜は夜明けよと啼く蛙」(蕪村)
「痩蛙まけるな一茶是に有り」(一茶)
「ランプ消して行燈ともすや遠蛙」(子規)


俳諧と「かはづ」については、寺田寅彦がこんな文章を書いています。

何が俳諧であるかを一口や二口で説明するのは非常にむつかしいが
何が俳諧でないかを例示する方が比較的やさしいようである。
私の知る限りにおいてドイツ人は俳諧の持合せの最も乏しい国民である。
彼らは例えば、呼鈴の押釦の上に「呼鈴」と貼札をし、便所の箒には「便所の箒」と書かなければどうも安心のできない国民性なのである。
これに比べてフランスにはいくらかの俳諧があるように思われる。
セーヌ河畔の釣人や、古本店、リュクサンブールの人形芝居、美術学生のネクタイ、蛙の料理にもどこかにひと雫はある。

ドイツ人の数学は、俳諧から遠そうですね。

ちなみに俳句とは、俳諧の発句のことです。つづく

ご参考
「日本の耳」、小倉朗著、岩波新書
「江戸問答」田中優子松岡正剛著、岩波新書
芭蕉全発句」山本健吉著、講談社学術文庫
芭蕉」保田与重郞著、新学社
「日本詩人選 松尾芭蕉」尾形イカ著、筑摩書房
「日本人の心の歴史」唐木順三著、筑摩叢書
芭蕉雑記・西方の人芥川竜之介著、岩波文庫
「定家明月記私抄」、堀田善衛著、新潮社版
「口訳万葉集折口信夫著、岩波書店
「新編 国歌大観」、角川書店
「俳句の世界」小西甚一著、講談社学術文庫
「科学と文学」寺田寅彦著、角川文庫